1999年5月10日月曜日

「会社の大きさ」は何で測るか?

企業経営において、事業の成長力とか経常利益とか「質」の部分の評価に加え、事業の大きさという「量」の部分の評価も、企業の社会的な役割・存在感といったものにつながってくるわけで、依然として大切なファクターである。でも、事業の大きさはどうやって測るのか。異なる業種に属する二つの企業はどうやって比較するのか。単純に売上高で比較してよいのか。従業員数か。異業種間での事業の売買、交換が日常化する現代、この問題はより大切になってきているようにみえる。

そこで注目したいのが企業の粗付加価値額である。粗付加価値とは当該企業のオペレーションにより付加された価値の合計であり、売上高から売上原価及び経費を差し引いたものと思えばよい。具体的には税引後経常利益、純支払金利、人件費、賃借料、減価償却費、租税公課の合計となる。企業が多くのステークホルダーズ(株主、融資元、従業員、地主・家主、公共社会など)に対して分配する価値の合計といえる。すべての経済活動の粗付加価値を合計したものがGDPであるので、企業の粗付加価値とは、その企業のGDPへの貢献度とも云えるのである。

日本の全企業、産業について粗付加価値をひとつひとつ計算するのはなかなか骨が折れる仕事だが、さいわいに通産省でつくった「わが国企業の経営分析」という資料がとても便利である。この資料から、二三の発見をご紹介することにしたい。

日本の資本金10億円以上の大企業1659社が捻出する粗付加価値合計額は平成9年度で70兆円、GDP504兆円の14%を占める。このうち製造業は1060社で36兆円、非製造業が599社で34兆円の粗付加価値を産出する。一社あたりでは非製造業の方がはるかに大きく、日本のサービス産業の巨大化は予想以上に進んでいることがわかる。

具体的にみると、スーパーマーケット業29社の粗付加価値は合計で1兆9000億円となり、巨大装置産業である高炉製鉄業8社の粗付加価値1兆8000億円をしのぐ。道路運送業18社の粗付加価値は1兆8000億円で、医薬品製造業40社の合計と同じくらいだ。また電気通信サービス業はたったの2社で4兆2000億円の粗付加価値を産出し日本経済の牽引役である自動車関連製造業25社の粗付加価値4兆4000億円に肩を並べる。

ところで「21世紀型サービス産業」である総合商社はどうか。総合商社9社は年間約1兆円の粗付加価値を生み出している。規模として高炉製鉄業8社の半分強である。非鉄金属製造業33社、水運業18社、航空運輸業5社とほぼ同じくらい。出版・印刷業11社の1.5倍、工作機械30社の3倍である。

総合商社の売上高がきわめて大きい一方で利益の絶対額が小さい。そのため過去において、ある時は総合商社は実力以上に巨大な存在と見られ自信過剰になったり、ある時はその反動で必要以上に過小評価され自信喪失に陥ったように思う。でも粗付加価値でみれば、実態はそれほど巨大でもないし、またそれほど捨てたものでもない。身の丈に応じた社会貢献(粗付加価値の創出)を続けたいものだ。

(1999年5月10日 橋本尚幸)

1999年4月5日月曜日

21世紀、誰が日本の寝たきり老人を養うのか

アメリカ景気の強さといったら、それはもうたいへんなもので、まったくうらやましい。一方で、わが国経済ときたら、ご存知の低迷ぶりで、見ていて歯がゆいばかりである。

そんな中で、アメリカの一流エコノミストが「日本の景気回復は当分期待できない。だから日本からアメリカへの資本移動は続かざるをえない。したがってアメリカの景気は当分大丈夫なのである」などというのを聞くと、日本はアメリカの「貢ぐ君」ではないよと、ひがみたくもなる。

日本の不況が長期化し、社会の構造改革も遅々として進まないようにみえる中で、人口の高齢化だけは着実に進行している。これではアメリカとの格差は開くいっぽうだ。このままで行くとわが国の将来はどんなものとなるのか、誰が高齢者の面倒を見るのか、考えるのも恐ろしいほどだが、ここは職務柄、パソコンを使って将来を数字で見てみることにした。

試算の前提であるが、日本の構造改革が進まないので日本経済の過小消費体質は、牢固として「改善されずに」維持される、すなわちゼロ成長と経常収支の黒字が続くと仮定する。また日本の経常黒字はすべて海外で再投資されるとする(その結果、経常収支黒字の為替相場、金利水準への影響はニュートラルとなる)。人口推計は厚生省の数字を使い、要介護老人の老人人口に占める比率は現在の比率(8.3%)が改善されないと仮定した。

計算の結果は、次のような意外なものとなった。まったく心配することはなかったのである。すなわち:

1)日本の人口がピークアウトする2005年での日本の対外純資産は、2兆2200億ドルにまで増大する(GDPの54%)。

2)この対外純資産からの受取利息はGDPの2.7%となる。

3)これで日本の防衛費(GDPの1%)を楽々と全額カバーできる。

4)さらに防衛費を払った残りで、日本の要看護老人(その時点で207万人)の介護費用として、一人あたり年間353万円を支給することができる。

日米経済は、こと貯蓄・投資バランスについていえば鏡のような対照性があるので、アメリカでは全く逆のことが起こる。だから21世紀において日本の防衛費と要介護老人の介護費用を払うのは、アメリカの納税者ということになる。まるでイソップの「ありとキリギリス」の童話だ。

不況が続いて、お隣の芝生が青く見えることもあるが、日本人はそれほどひがんだり卑屈になることはないと思う。同時にアメリカ経済の強さを必要以上に過大に評価することも間違っているように思う。

おごることなく、卑屈になることなく、常に等身大で自分と相手を見ることが大切なのである。そうすれば「百戦危うべからず」と孫子もいっている。


(1999年4月5日 橋本尚幸)

1999年3月1日月曜日

伸縮両面のある「日本式リストラ」のすすめ

社会経済生産性本部によると、日本の一人あたりGDPは、OECD12カ国のなかでトップであるにもかかわらず、国民経済生産性(実質GDP/就業者)となると大きく低下し、12カ国中11位にまで落ちてしまうとのことである(ちなみに最下位は韓国)。

どうしてこのようなことになるのか。いろいろの理由が考えられるが、ここでは日本の人口に占める就業者の比率が欧米に比べて高いことに注目したい。

ひらたくいうと、欧米では働く人は根を詰めて働くが、働かない人はまったく働かないという具合に、二つの種類の人間の間にはっきりした分化が進んでいるようなのだ。働く人は目一杯働くから当然生産性は上がる。一方、日本では、その分化がそれほど明確でなく、誰もが自分のペースで、できる限り長く社会に貢献するのを良しとする伝統がある。大勢でゆっくり働くので、生産性は落ちる。

あるシンクタンクの試算によると日本の企業内過剰雇用は700万人に達するという。また高齢の就業者も多く、日本の65歳以上の労働力人口は495万人にものぼり、65歳以上の人口の24%を占めるが、米国ではその比率は12%、英国においては5%にしか過ぎない。

日本の経済システムでは、生産性は落ちるが全体の生産量と雇用は多くなるのである。日本企業は社会的な役割も負わされているともいえる。(それにしては国際的にみて企業の税負担が高いが、ここではそれに触れない)

日本型システムに対する批判は強い。しかし、できるだけ多くの人々に、柔軟な賃金体系のもとに、その余裕と能力に応じて広く活躍の機会を提供するという考え方は、基本的に間違っているとは思えない。これが共同体意識、チームワーク精神につながってくる。これは日本パワーの源泉でもあった。

ヨーロッパではいま、「ワークシェアリング」といって、就業機会をより多くの人々で共有する試みがなされている。これは日本型システムの模倣だが、「模倣」は最高の「賛辞」であるのだ。

グローバル化による価値観の一律化が進んでいるが、社会と文化が異なれば自ずとやり方も異なる。現在、未曾有の不況の中で企業のリストラが進んでいる。しかし、このような日本社会の性格を配慮せず、縮小均衡のみを追求するリストラでは、経済全体としては資源の最適配分につながらないと思う。

縮みと並行して、己の強みの分野に於いては、積極的に人的資源を投入する拡張策が期待される所以である。

(1999年3月1日 橋本尚幸)

1999年2月5日金曜日

「バブルで滅んだ国はない」

不況もこれだけ長引いてくると、景気の悪い話など誰もあまり聞きたくなくなるものと見え、経済見通しについて観察するところをありのまま申し上げると「どうも悲観的にすぎるじゃないの」とか「景気の悪いのは百も承知。少しでも明るいところを探してきてほしい」などいわれることがある。小渕首相も通常国会の冒頭の施政方針演説で「いまや大いなる悲観主義から脱却すべきときが来ている。いま必要なのは確固たる意志を持った建設的楽観主義である」と強調し格好がよかった。まことにもっともな態度であるが、それをとらえて「調査機関や企業の調査部門の連中が弱気なことばかりいうから日本経済はますます萎縮するのだ、あいつらはけしからん」ということにつながるのなら、それはちょっと違うという気がする。

たしかにビジネスマンの基本的資質に楽観的ということがある。しかしこの楽観的ということは、外的環境を自分に都合のよいようにねじ曲げて甘く解釈することではなく、外的環境をありのままに見据えた上で、積極的に、適切な対応策を実行に移すことにあると思う。それこそ「建設的な楽観主義」であろう。

現実に、多くの日本企業が、かつて景気のよかった頃には手が着けることができなかった構造改革に本腰を入れて着手している。なにせ企業の生き残りがかかっているのである。その意味で、今回の不況は、時代に適合しなくなっている昔からのしがらみを断ち切る絶好の機会ともいえるのだ。

こういった企業の対応は、主に人件費などの固定費の削減を目指すもの、不採算部門からの撤退、または合併・業界再編、さらに新規成長分野・得意分野への集中的な投資など、いくつかの種類に分類できる。これらの動きは連日のように新聞紙上をにぎわしており、日本企業の対応の的確さと迅速さには目を見張るものがある。もっともいまの大不況にあって初めてこれが可能になったという面もあり、不況にもなかなかよいところもあるのである。

経済発展の歴史をみると、バブルとその崩壊は限りなく繰り返されたが、それで滅んだ国はなかったことがわかる。景気循環の歴史の専門家によれば、好況と不況(恐慌)は19世紀以来、ほぼ10年ごとに繰り返されてきたが、不況(恐慌)の度ごとに、当該社会の産業競争力が強化され、生産性の向上が見られたという。

国は経済の悪化によっては滅亡しない。経済悪化で情緒不安定になったときに下す政治外交的判断の誤りによって滅ぶといわれるが、企業においても同じことだ。

平成不況の中、大部分の日本企業は冷静に平常心を失わず、着々と正しい対応を実行しつつあるのを見るにつけ、不況は来年まで続くかもしれないが、日本産業の競争力は着実に強化されつつあると判断する。そういう意味で、私はきわめて楽観的なのである。

(1999年2月5日 橋本尚幸)

1999年2月1日月曜日

バランスシートで見た日本経済

先月のこのコラムで「調整インフレが警戒されている」と書いたところ、複数の人から「調整インフレ論者だった筈の筆者がいつの間に宗旨がえをしたのか」とお叱りをいただいた。筆者としては、資産家はこう考えているのだろうとの、観測を述べたつもりだったが、いつもながらの舌足らずな文章のため意が伝わらなかった。反省。そういうことで今回も、日本の遊休化した資本ストックと水膨れした個人金融資産の関係について、価格の問題を絡めて、考えてみたい。

現下の不況の根本原因に、過剰な資本ストックがある。1980年代後半、内需拡大のかけ声の元に、企業は過剰投資を積み重ね、伝統的に低いレベルでおさまっていた資本係数を異常な高さにまで押し上げてしまった。日本経済は全体で50兆円とも100兆円とも言われる余分な供給能力を抱えることになったのである。今の不況は、この矛盾を調整する苦しみの過程にほかならない。

日本経済をひとつのバランスシートに表してみると、この供給能力の過剰とは、借方側の資産部分が実態以上に大きな金額で書かれているということである。実際には、実物資産の相当部分が稼働していないわけで、余分で価値のない設備が額面で帳面に記入されているのだ。このバランスシートの調整が今後確実に進行していくことになる。

問題は、この借方側の実物資産の過大評価に対応する貸方側の調整である。借方が実態以上に水膨れしているということは、貸方側も実態以上に過大に評価されている(不良債権化している)ことである。なかでも日本人一人当たり1000万円、全体で1200兆円にのぼるという個人金融資産の実態はどうかという点が興味深い。資産部分(借方)が水膨れしていることに対応して、この1200兆円も、そうとう大幅に過大評価されている(不良債権化している)はずである。日本の資本効率の驚くべき低さが、何よりも雄弁にそれを物語っている。

実物資産(設備機械)の除却が進行して借方の過大評価が解消するにつれ、過大評価されている貸方側でも調整が進む。その方法は、利益の吐き出し(企業の負担)、資本金部分の圧縮(株主の負担)、借入金部分の切り捨て(債権者の負担)などがあり、それぞれの部門が応分の負担をしなければならない。家計の金融資産(大部分が預貯金)も「円安をともなった物価の上昇」により実質的に減価させることも可能なのである。

鎌倉時代、当時の国土防衛戦争(元寇)の出費で困窮した御家人集団を救うため、徳政令が考案された。いま「平成の徳政令」として「調整インフレ」が議論されている。それに賛成するか、反対するかは、経済政策的に正しいかどうかというよりは、論者の資産ポジションによって大きく影響されているように思う。

(橋本尚幸)

1998年12月1日火曜日

デフレ経済はとにかく生き抜こう


今回の不況は想像以上に長引くとの見方が次第に強まっている。景気対策を小出しにしてタイミングを失するうちに、日本経済の伝統的な牽引役である民間設備投資が、いよいよ下降循環に入ってしまったからである。

設備投資の循環サイクルがいったん下向くと3年は続くのが過去の例だ。その間、在庫循環などの短期的な景気サイクルが上向いても、また少々の財政を出動させても、人為的な手段ではなかなか景気は浮揚しないのである。

そのうち頼みの米国経済も怪しくなってくる。アジア経済が最悪期を脱するとしても日本経済を牽引するにはいかにも小さい。ということで、やっぱり不況は長期化するように見える。そういった状況のなかで、我々はどう対応すべきなのだろうか。ひとつ皆になりかわって考えてみよう。

まず企業であるが、オペレーション規模の適正化がなによりも大切との認識が広まっている。需要が縮小するなかで収益を上げうる企業体質への転換である。これは短期的には縮小均衡となるが、市場に参加する企業数の淘汰も同時に進むので、生き残れさえすれば最終的には売上高は拡大すると期待できるのだ。
家計もデフレ経済のなかで出来るだけ身軽になろうとしている。わが国には「シンプルライフ」「清貧」をよしとする伝統があり、極端な倹約も美意識に沿ったかたちで実行可能だ。支出は最小限にとどめひたすら資産の蓄積に励む。また今から生活程度を下げておけば年金生活へ移行してもショックが少ない。貯金はまさに一石二鳥なのである。

一方、資産面では各人の金融資産の目減り防止が最大の課題となる。バブル崩壊で地価、株価をはじめ資産価格が大幅に目減りしてしまったが、預貯金で保有する金融資産は、相当部分がバブル期に家計が企業部門に高値で売った不動産の代金であるが、まったく目減りしていない。問題は確実な投資先が少ないことだが、幸い巨額の国債発行と財投(郵貯)は毎年続くのでそれに投資すればよい。投資の収益は税務署が納税者から責任を持って取り立ててくれるので安心である。警戒すべきは「調整インフレ」だが、最近はこの議論も下火になった。

上記がほとんどの企業と家計が考えていることではないか(図星でしょう)。でも皆が同じ行動をとると「合成の誤謬」が生じる。よって不況は長引くのである。

しかし悪いことばかりではない。不況が続く限り日本産業は合理化を続けるので競争力が向上する。また家計も貯蓄を続けるので資金がたまる。だから日本経済は、将来的にはますます巨大な資金といよいよ強い国際競争力を持つことになるだろう。「合成の誤謬」転じて「合成の大正解」である。再び日米摩擦? でも今度はもっと謙虚に行きたいものだ。

(橋本尚幸) 

1998年11月30日月曜日

杉野さんとアルページュ

〔旧HPより転載〕


杉野さんは亡くなってしまった。向井さんも島氏さんも、江面さんも酒井さんも、みんな亡くなってしまった。楽しいときがあれば、終わりもあるのだ。


杉野さんとアルページュ杉野さんとアルページュ杉野さんとアルページュ
杉野禾吉さんとアルページュ
1998.11 アオレレ (AOLELE) 文集に寄稿


はじめて杉野さんにお会いしたのは、もう30年近くも前になりますが、油壷に浮かぶ青いアルページュの上でした。僕は当時、東京に出てきたばかりの新入社員で、一年先輩の島氏さんの紹介でアオレレに寄せてもらうことになったのです。夏も終わりのある土曜日の午後(当時の住商では土曜日は各週で出勤でした)、向井さんの車で油壷に向かいました。道は混んでいましたが、長者が崎をまわったとたんに、青い海と白い雲が目の前いっぱいに広がり、とても感動したのを憶えています。

道ばたにアシタバが生えているヨッテル際の細道を下り、テンダーを漕いで、お椀のように丸くて背が高いヨットに到着しました。それがアオレレで、なんでもフランス製のアルページュという最新型プロダクションボートで、この春の太平洋横断シングルハンドレースで堂々二位で三崎にゴールしたものを、アオレレメンバーの得意の英語交渉力で買い取ったとのことでした。僕がその高いスターン(その時はまだ梯子がついていなかった)を苦労してよじ登るのを、コックピットから助けてくれた人が杉野さんで、白い半ズボンに、学生帽のような青い帽子がとても印象的でありました。

アオレレでは毎晩が酒盛りでとても盛り上がりました。向井さんは、アルページュの近代的なキッチンで盛んに料理をつくり「このジョンジョン(日本酒)は美味しいよ」と剣菱を呑んでました(わたしは関西育ちなのに剣菱の名前も知らなかった)。江面さんは「式根という島に行くと、崖下の浜に温泉が湧いていて、そこに入っていると目の前に夕陽が見えて、波がどーんと跳ねかえって、とーてもチョーワ(良い)よ」と話してくれました。冨島さんは「ミラノに出張で行ったが日本の円を交換しようとしてもどこでも換えてくれなかった、日本はまだまだアンデーな(良くない)国よ」外国のみやげ話をしていました。島氏さんは「ネー、ネー(了解、了解)」と云いながら、いつもニコニコされていました。隣の船の方がアジのたたきを作ってくれました。(こうやってバイ菌を一つづつ殺すのよ、といって包丁で盛んにアジを叩いておられました)。その他にもいろんな楽しい人たちが集まってアオレレは毎晩にぎやかでした。杉野さんは「普通の船はまずハルがあってその中にキャビンを埋め込むのだが、この船はまずキャビンを設計してその外側にハルをとりつけたのよ」とアルページュの居住性をこよなく愛しておられました。

進藤さんが船にミス・エクアドルを連れてきたり、杉野さんがビール会社の宣伝に船を提供したので美人モデルが大挙してやってきたり、それはそれはドキドキするような楽しいことがいっぱいありました。はじめての初島レースでは、強風のなかでスキッパーの沼口さんの英雄的なティラーさばきに感動しました(明け方になっても頑張って舵を引く沼口さんの頬に、青々と髭が(進行形で)伸びてくるのをみて、ただただすごいと思いました)。向井さんが大きなシイラを釣って、それを皆で食べ尽くしました。そのまま鍋に放り込んで揚げたアナゴのてんぷらも絡み合っていてすごかった。波布の港の岸壁で、御神火という焼酎といっしょにはじめて食べたクサヤの美味しかったこと。日曜日の夕方になると杉野さんの年代物の青い「トラック」をだましだまし運転して東京に帰ってきました。アルページュに乗っていた時の僕たちは本当に楽しく幸せでした。

でもしばらくして僕はアルゼンチンに行くことになり、油壷を去りました。杉野さんも考えるところがあり、会社を辞められ日本を離れました。杉野さんはアルゼンチン経由でブラジルに向かわれたのですが、ブエノスアイレスのバスターミナルで、一人でブラジルに発つ杉野さんをお見送りした時は、さすがに感無量でした。

向井さんが「ヨットマンは常に超現実の世界に理想と夢を求めるのだ」との趣旨のことを云ったことがあります。僕も同じように感じることがあります。船首を大海原に向けてティラーを引くとき、この世のしがらみは後ろに残し去って、すばらしい希望に向けて船を進めているような気になるのです。人生においては、僕の場合、理想と夢は空想の世界の中にそれを求めることで我慢してきたように思います(空想への逃避をしていたのです)。しかし杉野さんの場合は、勇気があり、あくまでも現実の世界における夢と理想を追求され、実践されたのでした。

杉野さんを思い出すとき、どうしても青い色が浮かんできます。相模湾の青い海。杉野さんの青い帽子と青いダッフルコート。杉野さんの青い「トラック」。そしてあくまでも青いヨット「ブルー・アルページュ」です。

アルページュといえば、同じ名前のフランスの香水があります。家内はごく若いころ、この香水をつけていたのですが、それはもうずっと昔のことで、いまはその香りも嗅ぐこともありません。アルページュとは、永遠に「青春の香り」なのかも知れません。

(橋本尚幸)

1998年10月1日木曜日

企業にとっての情勢判断と情報

ピーター・ドラッカーによれば、今後の企業にとって最も重要な課題は「いかに外部情報を収集、分析し、それを経営戦略に組み込んでいくか」であるという(10月5日、日経新聞)。ビジネスが包含するリスクは、昔と較べ段違いに巨大化、複雑化していることを考えれば、企業経営にとってシステマティックな情報収集と分析、それにもとづく的確な情勢判断が、ますます重要になっていることはいうまでもない。問題は、どうやって企業体のなかに、こういった仕組みと風土をビルトインするかであるが、古今の情報収集分析の専門家が一致して重要と指摘している点を三つばかり紹介したい。

まず第一に、組織としての「複眼的」な情報分析が大切であるということ。経営判断は、基本的には所轄部門のいわゆる「ライン」情報にもとづき行われるのが通例であるが、ひとつの情報だけを判断の拠り所にするのではなく、常に別のチャンネルの情報も参考にすべきだということである。戦略重視の大英帝国においては、伝統的に、大使館経由の情報(「ライン」情報)に加え、MI6などの諜報機関のサイド情報が重要視されてきた。情報ルートが複数となると、当然それぞれの判断が食い違うことが起こるが、それが更に突っ込んだ議論を呼び起こし、判断の精度が高まる。情報は決して「一本化」してはならないのである。

第二の点は、公開されている文献情報の重視である。スパイ・ゾルゲの例は有名だが、昔から情報分析の専門家は、ほとんど公開情報をベースに情勢判断を行ってきた。「情報は足で稼げ」とは一面の真理ではあるが、それが文献情報の軽視につながるならば、とても危険な風潮と言わなければならない。

また「人間は自分の知識の範囲内においてのみ認識する」という臨床心理学の研究を信ずるならば、ストックとしての知識ベースを広げることが新たな情報を収集するためにも重要になってくる。情報の量が多くなると、どうしても複数の専門家による分業が必要になる。多数のワークステーションを並行稼働させることで超高速スーパーコンピューターなみの性能を出せるようになったように、チームプレーによる組織的な情報分析の技術を磨いて行かねばならない。

三つ目は「ビジネスの視点に立った」情報分析ということである。情報の値打ちとは、その情報がもたらしたアクションの大きさによって計られるという。一見なんでもない情報が戦いの帰趨に決定的な役割を果たした桶狭間の戦いの事例を見るまでもなく、結局どのような情報が経営判断にとって重要かを情報分析スタッフが十分知っていることが必要なのだ。その意味で、政治経済情勢の分析も、企業としてやる以上、ビジネスの実務経験者を中心にした情報分析体制で取り進めることが望ましいのである。

橋本尚幸 

1998年9月1日火曜日

「第二の敗戦」で再び注目される坂口安吾

不況に加えて、企業、官庁のスキャンダル、さらには相次ぐ毒物事件と、日本列島にはいま、あたかも「第二の敗戦」といえるような無力感が漂っている。そのためか、戦後の灰燼のなかで当時の青年達に熱狂的に読まれた作家、坂口安吾に再び関心が集まっている。安吾の文章の幾つかを紹介させて欲しい。

「日本は負け、そして武士道は滅びたが、堕落という真実の母体によって始めて人間が誕生したのだ。生きよ墜ちよ、その正当な手順の外に、真に人間を救いうる便利な近道が有りうるだろうか」

『堕落論』の有名な一節である。でも単なる開き直りではない。安吾はいう。「(善人は気楽なものだが)堕落者は常にそこからハミだして、ただ一人曠野を歩いていくのである・・・孤独という通路は神に通じる道であり、善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや、とはこの道だ」(『続堕落論』)

この安吾の『歎異抄』の読み方はやや独特だが、彼がいわんとしたことは堕落による新しい規範の創出に他ならない。すなわち「人は無限に墜ちきれるほど堅牢な精神にめぐまれていない。何物かカラクリにたよって落下をくいとめずにいられない・・・堕落は制度の母体である」(前掲書)

安吾は日本人はもともと復讐心が少ない人間であるからこそ仇討ちが制度化されたこと、権謀術数が伝統であればこそ武士道が工夫されたことなど例をあげ、だから「人は正しく墜ちる道を墜ちきることが必要なのだ」と説く。

さて現在、日本経済は景気の回復と構造改革という二つの相反する課題に直面している。どちらを優先するのか。安吾の考えによれば明らかに後者となる。

われわれ戦後世代は、戦後をひたむきに生き、日本の経済発展に寄与してきたと些かの自負はあるものの、荒廃した戦後教育しか受けられなかったゆえに、教養と独創性に欠けるとの指摘を受けることがある。内心忸怩たるものがある。それが自信喪失にもつながっている。でも安吾は気にすることはないという。

「僕は・・玉泉も大雅堂も竹田も鉄斉も知らない・・けれども、そのような僕の生活が・・貧困なものとは考えていない・・・法隆寺も平等院も焼けてしまって一向に困らぬ・・武蔵野の静かな落日はなくなったが累々たるバラックの屋根に夕陽が落ち・・ここにわれわれの実際の生活が魂を下ろしている限り、これが美しくなくて、何であろうか」

「猿真似を恥じることはない。それが真実の生活である限り、猿真似にも、独創と同一の優越があるのである」(『日本文化私観』)

安吾は「ありのままの自分への信頼」が最も大切と説いた。その言葉には今読んでみても魂の震えを覚える。そのため引用が長くなった。ご寛恕を乞う。

(橋本尚幸)

1998年8月1日土曜日

「調整インフレ」についてもう少し議論をしよう

さかんに「調整インフレ」について議論されたが、反対意見が多く、また日銀総裁の否定的な見解発表もあり、最近は一段落の感がある。でもこの問題は、わが国を今後どういう方向に持って行くかという、きわめて本質的な問題を含んでおり、これでお仕舞いにするにはまだまだ早いように思う。

公債依存度がこれだけ増えてしまったいま、景気を刺激するにしても財政政策には限界がある。一方で、金利は既に「超低金利」となっており、更に金利を下げる余地はない。しかしマネーの的拡大をじて「期待インフレ率」を上昇させることができれば、名目金利は変化させずとも「実質ベース」で金利を低下させ景気刺激になる。これが「調整インフレ論」である。

これに対して「物価のコントロールは難しい」とか、「とにかくインフレは悪」との反論は多く出されたが、この調整インフレ政策が、世界経済にどのような影響を与えるのか、産業構造、不良債権問題との絡みはどうかなど、もうちょっと突っ込んだ議論があってもよかったように思う。二三の議論の材料を提起したい。

まず第一に、わが国で喫緊の課題である不良債権問題との関係である。金融機関の貸付残高で不良資産化している部分を公的資金で補填しようというのが政府の考えである。一種の「徳政令」であるが、最終的な負担者は誰かといえば、公的資金とは税金であるので納税者ということになる。負担比率は納税割合、すなわちほとんど「所得」に応じてである。一方、調整インフレ政策も金融機関の負債残高を実質で減少させるので不良債権問題の解決になる。ただ損失を負担するのは金融資産の所有者で、負担割合は基本的には資産残高に応じてである。公的資金による救済の場合、最終的負担の分担基準は所得の額(フロー)であるのに対し、インフレによる救済の場合は金融資産(ストック)の額となるのだ。わが国においては、所得格差より資産格差の方がはるかに大きいことを考えると、調整インフレ政策の方がより公平な負担方法といえるのではないか。

第二に、世界経済への影響である。インフレは円安を引き起こし、日本の輸出競争力を高め、景気回復を加速させる。一方アジア諸国の輸出には不利に働く。中国はこの機会に人民元を切り下げ、その責任を日本に押しつける可能性が高く、政治的には難しい判断となる。しかし日本経済はアジア経済の75%を占め、日本経済の成長なしにアジア経済の回復もあり得ない。また円安はサービス化が進んだアメリカ経済に対しては悪影響を与えることはない。「国際的責任」とやらを考えすぎて適切な行動をとらないことは、それこそわが国の国益を二義的に考えているとの謗りを免れないのである。

第三に、産業構造調整との関係である。インフレには産業構造の高度化を促進する働きがあることが知られている。産業構造の高度化のためには、就業者が効率の悪い業種から効率の高い業種にスムーズに継続的に移動しなければならないが、これは業種間の賃金格差によってはじめて可能になる。現代社会においては、賃金の下方硬直性があるため、この賃金格差を生じさせるには適当なインフレが必要であることが実証されている。逆に言えば、いまのようなゼロ・インフレ経済では、産業構造の高度化は期待できない。日本産業の10年20年先の国際競争力を考える場合、これは重要なポイントである。

以上、今回あまり議論されなかったと思われる二三の点について問題提起をした。「調整インフレ」議論を単なる技術論や善悪論だけで終わらせてはならない。

(橋本) 


1998年7月1日水曜日

先達に学ぶ「グローバル化」への適応

日本の自信喪失が顕著である。あれほど天下無敵を誇った「日本システム」も今やくそみそに批判され、日本人はすっかり弱気になってしまったようだ。つい昔までの「ゴーマ(傲慢)ニズム」から一転して今や自虐的な「日本まったく駄目論」が蔓延っている。どちらが正しいかはともかく、この極端から極端への振れの大きさに現代日本人の弱さがあらわれているように思う。

背景に待ったなしの「グローバル化」への適応が人々に大きなストレスを引き起こしていることがある。しかし前例がないわけでもない。文明開化となれば何と言っても明治時代。その時代に日本の国際化の第一線に立ってグローバル化に直面した当時の第一級の人々の葛藤ぶりを見ることは現代日本人にとっても参考になるように思う。森鴎外、夏目漱石、永井荷風にそれを見てみたい。

この三人のうち一番早く欧米文化に触れたのは鴎外であった。陸軍省から明治17年にドイツに派遣された。日清戦争の始まる10年も前のことであり当時の日本は極東の全くの弱小国であった。鴎外はベルリンで華やかな社交と観劇に明け暮れる生活を送る。鴎外においては文化摩擦とかコンプレックスが不思議なほどに見られないのだ。もっともその後帰国して陸軍で出世するが、後を追いかけてきた(『舞姫』のモデルらしい)ドイツ婦人には「普請中なのだ」と言い訳のような言葉を述べる。鴎外にとって日本とはあくまでも「普請中」なのであり、だから葛藤もコンプレックスも何もなかったことがわかる。

ところが明治33年にロンドンに留学した漱石の時代になると状況は大いに異なった。日本は極東の強国としての地位を固めつつあった。どうしても漱石は自意識過剰となり西洋文化との適応に悩みに悩む。明治20年代に大幅円安が進行して漱石のロンドン生活は経済的に苦しかったこともある。「惨めなむく犬のような」生活ののち、ようやく「自己本位」という拠り所を見つけはするが、ほとんどノイローゼになってしまう。無礼を承知で言わせていただければ、あまりに肩に力が入っていたように思う。しかしさすがは漱石、「(日本人は)自ら得意になる勿れ。自ら棄る勿れ。黙々として牛のごとくせよ」と印象的な言葉を残しているのである。

興味深いのは永井荷風である。荷風が日本を離れるのは明治36年だが、荷風の場合に特徴的なことは、ほとんど完璧に西欧文明に適応するのであるが、逆に当時の日本の表面的な「近代化」に激しい嫌悪感を感じるようになったことである。遂に荷風は似非「近代化」には背を向けて江戸伝統文化への回帰を決意するのだ。この当時の安直な「近代化」がその後の日本を破滅に追い込んで行くことは荷風の直感通りであった。

いま自信喪失の時代において、われわれはこの三人の先達から学ぶところが多いように思う。われわれ平成の日本人は今、鴎外のように日本は所詮「普請中」と割り切ってもっと気楽になり、荷風がもっとも嫌った「背伸びした(似非)近代化」はつとめて避け、漱石が書いたように何を言われても「真面目に牛ごとく黙々と進む」べきなのである。

(橋本)

1998年6月1日月曜日

日本は身の丈に応じた国際貢献を

「共産主義」という名の妖怪が欧州を彷徨したのは19世紀のことだが、20世紀も終わりを迎えた現在、「市場主義」という名の荒ぶる神が、アジアを暴れまわっている。この巨大な力は、たとえ何十年続いた政権ですら簡単に押し潰してしまう。発展途上にあるアジア各国の経済などは、まるで木の葉のように翻弄されている。はたしてアジアは現在の苦境を克服することが出来るのか。そのためにわが国は何を為すべきか。

日本の役割といえば、常識的ではあるが、内需を増大させ、アジアの輸出の吸収者の役割を引き受けることだといわれる。どうやって内需を増大させ、それを輸入の増大に結びつけるか、様々の理由から、これは言うべくしてなかなか難しい。アジア輸出の市場としての日本の役割も、相当制限されることにならざるを得ないように思う。

最近東京で開かれた国際シンポジウムで、香港からの参加者がいみじくもこの点を指摘した。日本は「アジアへの貢献、貢献と、出来もしないことをいうより、自分自身がアジア経済の足を引っ張ることのないようにしたらどうか」と喝破したのだ。

あまりにも消極的な国際貢献だが理屈に合っている。ネガティブな行動をとらないことこそが国際貢献となる例は多い。中国の人民元は、購買力平価の5分の1程度の水準で中国の輸出ドライブの原動力だ。本来なら各国から人民元の「切り上げ」要求が出てしかるべきだが、現実には単に「人民元を切り下げない」だけのことで、立派に中国は世界に貢献していると評価されているのである。

日本も先進国サミットなどで「日本経済は大丈夫だ、内需拡大は可能だ」と空元気を見せるのではなく、現在日本が直面している窮状を素直に説明し、経済を深刻なデフレ・スパイラルに陥らせないことこそ日本が出来る国際貢献だと実情を知らせるべきではないか。

日本は現在、過剰設備の調整という大きな問題を抱えている。この問題(資本係数の上昇)は、前川レポートで内需拡大が叫ばれた1986年あたりから急に顕著になってきたものだ。この前川レポートを楯に大幅な内需拡大を求める外圧に応え、際限なく金融を緩和させたことが、過大な設備投資につながり、設備バブルを産み出したとも言える。この解消は短期間ではなかなか難しい。

でも、ものは考えようだ。ハーマン・カーンが「21世紀には日本が米国を抜く」と書いたのは1960年代の終わりだった。当時、当社のさる役員は若い社員を前にこう言ったものだ。「来世紀には日本人はアメリカ人より豊かになるとのことだが、私は年寄りであり最早そんな世界を生きて経験することは出来ない。若い君たちは21世紀まで生きることが出来る。実にうらやましい」と。ところが現実には円高が進み、1987年には早くも日本は1人当たりGDPでアメリカを抜くことになった。ちょっと早すぎたのだ。

もちろんこれは名目金額での話であり、購買力で考えれば日本の1人当たりの購買力は米国の7割程度に過ぎなかった。しかし徐々に改善が進んでおり、今や8割程度までに追いついている。低成長が続いても日本経済のキャッチアップは着実に進行しているのだ。

(橋本) 

1998年5月6日水曜日

個人消費の低迷と老後の不安

今年のゴールデンウィーク中の築地市場の売上はまずまずであったとのことだ。例年この期間は、多くの人が東京を離れるので、都内の青果の需要は大幅に落ち込むのが通例である。しかし今年は不況で休みを自宅で過ごした人が多く、築地の売上は落ち込むことはなかったらしい。消費者マインドの悪化もいよいよここまで来たかとの感を深くする。

小売り関係者によると最近の消費者の堅実化ぶりはたいへんなもので、特に中高年層の節約ぶりは徹底しているとのことである。この要因はいろいろあろうが、やはり不透明な将来への不安、具体的には老後不安の増大が大きいように思う。

この背景には伝統的な社会制度が崩れつつあることがある。昔は長男が親と同居して親の面倒を見ることが当然と考えられたが、時代は変わった。一方で、それを補うはずの公的年金制度も維持できなくなりつつある。中高年は、否が応でも倹約して、自分の老後は自分で面倒を見ざるを得ないのである。

さらに介護サービスの問題がある。一般的に豊かな社会においては、サービスの価格は財の価格に較べ相対的に上昇するから、将来日本人の平均収入が増えるとすると、介護サービス価格もそれに応じて上昇することになる。高齢者の将来収入は引退時点での資産残高で規定され将来ともにほぼ一定であるので、社会が豊かになればなるほど高齢者は介護サービスを購入することが困難になるという、逆説的なシナリオが成り立つのだ。

もちろん年金制度などをいじくって制度面で対応を考えることも可能だが、財政支出の増大につながる。どうしても老人介護のサービス価格を、財政支援を通じてではなく、直接的に低減させる方法を考えねばならない。

この問題への根本的な解決方法として、老人介護における外国人看護人の就労規制を緩和する方法がある。外国人というと拒絶反応があるが、日本の人口に占める外国人の人口比率はまだまだ小さい。宗教問題もない。

将来日本の高齢者人口比率が25%となり、そのうち10人に一人が寝たっきりとなったとしても300万人である。100万人程度の外国人看護人がおれば、すべての寝たっきり老人の介護が可能になる。現在の日本の外国人比率を1%押し上げる程度の変化である。それだけで、我々は安心して長生きが出来るようになるのだ。

来ていただいた外国人看護人には誠意を持って報恩するべきである。フランスの外人部隊の隊員には、5年の契約期間が終わった段階でフランス国籍が認められる。「フランスのため血を流した人間はフランス人だ」という理屈だ。お年寄りのお世話を一定期間やってくれた外国人看護人には、日本の国籍や市民権を進呈すべきだろう。それこそ「日本のお年寄りの面倒をみてくれた若者は、出身地がどこであれ立派な日本人」なのである。いろんな出身地の若者が増えることで、社会も多様化し、ずっと楽しくなるだろう。将来の不安が低減されるので、中高年層も安心してお金を使うようになる。

総花的な景気対策ではなく、このような具体的で人々に元気を出させる政策が、もっともっと考えられてしかるべきではないか。

(橋本)

1998年4月2日木曜日

資本ストックの調整が景気回復の鍵に

たしかに最近の景気は惨憺たるものだが、不況脱出のために何をすればよいのか、なぜかなかなかコンセンサスが出来上がらない。網羅的な「総合経済政策」は何度も立案されるのだが、あまり評価されず、皮肉にも政治家がそれを云々する度に逆に株価が下がる。

分析が足らないわけではない。日本経済についてはすでに膨大な分析がなされており、多くの問題点が指摘されている。バブルの崩壊が資産デフレをもたらし、それが金融システムの破綻につながったこと、背景には日本経済の規制体質があり、それから脱却しグローバルスタンダードに対応するためには規制緩和と競争原理の導入が必要である云々。一々もっともであるが、それらの問題意識に基づいた経済の体質改善を狙う「政治的に正しい」構造政策は、インフルエンザの患者に漢方薬を処方するのに似て(理屈では正しい処方であるとしても)、患者はなかなか楽にならない。むしろ患部に直接きく「対症療法」のほうが望まれている。

いま実体経済が直面する問題とはデフレギャップである。需要が少なすぎるのだが、むしろ供給が需要に比べて多すぎる、すなわち設備過剰問題だと考えればよい。

これは米国経済と比較してみるとよくわかる。日本の設備投資比率(民間設備投資/GDP)はおおむね15~20%、一方米国は10%程度にすぎない。また日本の資本係数(民間設備ストック/GDP)は1.2であるが、米国は1.1であり日本は米国に比べ約10%大きい。この過剰設備が、バブル崩壊にともなう期待成長率の低下を契機に一挙に表面化し、アジアにおける過剰投資も加わり、日本経済に大きなデフレ圧力をもたらし、さまざまな歪みとなって現れているのだ。

よって景気対策の基本は、あくまでも需要の拡大と供給の削減にあるべきである。ただ需要を拡大させる場合でもそれが供給の拡大に結び付かないように注意しなければならない。つまり設備投資比率が変わらないとすると、総需要の拡大政策が採られても、必ずその一定割合が民間設備投資にまわり、それが供給力を拡大させ、逆にデフレギャップが広がってしまうこともありうる。また競争を通じての過剰設備の解消を狙うにせよ、過去に過当競争が常に過剰設備問題をもたらしてきた事実や、敗者をなかなか決定させない日本の社会風土を考えると、競争が結果的に経済全体の供給力を増加させる可能性があることも留意すべきだろう。

そう考えると需要の創出よりも供給の削減、過剰設備の除却がむしろ効果的かもしれない。いま民間企業が進めている「経営資源の戦略的配分」とはこの動きに他ならない。これをもっと広く国民経済ベースで進めなければならない。必要なのは経済のノンコア部分を勇気を持って整理する政治の指導力である。
ともあれ、日本の資本係数を米国並にするには、全体で資本ストックを50兆円程度減らす必要がある。それを5年で調整するとすれば、毎年10兆円づつ設備投資を抑えることになる。こうなると景気の早期回復は難しいと考えざるを得ない。でもその間を堪え忍び、スリム化に本当に成功すれば、21世紀の日本経済は再び天下無敵となるだろう。

(橋本)

1998年3月1日日曜日

日仏「アダルト・チルドレン」事情とリフレ政策

いきなり私事で恐縮だが、私の家内はフランスで68年5月学生革命のころに青春を過ごした世代に属し、あれで昔はなかなか元気がよかった。今はすっかりいいおばさんになって、日本とフランスを往復する生活を送っているが、時として時代の風潮に義憤をあらわにすることもある。欧州でいつまでたっても親離れできない、いわゆる「アダルト・チルドレン」が急速に増加している現象は、実に問題であるという。

フランスでは30歳になっても親離れができず両親の家にとどまって一緒に生活している子供が5人に1人の割合で存在するとのことだ。われわれの知り合いの家庭でも例にもれず、息子がまだ親離れできず両親の家の子供部屋に暮らしている。最近は実に自分の「パートナー」までそこに呼び込んで生活し始めたとのこと。親の価値観に反発し、一刻も早い自立を目指したわれわれ旧世代の人間は、こんな話を聞いて、ただもう驚くばかりである。

背景にあるものはヨーロッパの深刻な失業問題である。特に若年層が苦しく、若者の4人に1人は大学を卒業しても職を見つけることができない。この構造的な問題が若者の生活姿勢を、極度にうち向きで消極的なものに変化させ、それが社会全体の保守化傾向につながってきている。失業問題が、単なる経済的な問題にとどまらず、社会全体の価値観をもむしばんでいるのである。

この現象は日本にとって決して対岸の火事ではない。日本においても親離れできない子供が増えてきているように思う。現にわが家のお向かいでは、子供がいつまでたっても巣立たないので、逆に親のほうが家を出て田舎に引っ越してしまった。日本の場合は背景に土地問題がある。まじめに働いても若いうちはなかなか自分の住宅を保有できないのだ。「二世代住宅」というへんなものも今やすっかり一般的になった。

フランスでは雇用が少数の就業者で独占され、既得権化していることが失業を生みだし、結果として「アダルト・チルドレン」を生み出した。日本の場合は、土地が少数の所有者(地主)で保有され、既得権化していることが地価を押し上げ、結果としてフランスと同じく「アダルト・チルドレン」を生み出している。やや強引だが、両国ともに「既得権」が親離れしない子供を生みだし、ベンチャー精神を窒息させ、技術革新も停滞させ、社会の保守化をもたらしているともいえる。「風が吹けば桶屋が儲かる」のたぐいの議論に似ているが「遠からず」だろう。

日本経済は、来世紀にかけて当分低成長が続くものと予想されている。少子化の傾向がこれにさらに拍車をかける。昨今、低成長はやむを得ない、その中で将来を考えねばならないとの議論が目立つようになったが、経済の停滞が社会の価値観の分野にまで影響を及ぼすようになってくると、やはり看過できない。無理をしてでも成長率の嵩上げが必要である。具体的には少々のインフレを容認してでも景気を刺激するリフレ政策をとらねばならないだろう。国債発行は子孫に負担を先送りするというが、「アダルト・チルドレン」は、少しは苦労させた方がよい。

(橋本)

1998年2月2日月曜日

通貨の急落にも拘わらず低迷するアジアの輸出

奇妙な事実がある。通貨の急落で大幅に輸出競争力が付いたはずのアジア各国の輸出がほとんど伸びていないのである。

インドネシアでは現地通貨ルピアが80%も下落して輸出が断然有利になったにもかかわらず、逆に輸出伸び率は昨年より鈍化している。マレーシアの輸出も最近は前年比マイナスが続いている。タイでも韓国でもほとんど横這いだ。通貨の大幅切り下げからすでに半年近くが経過したが、いまだに輸出にドライブがかからないのである。

つい最近までアジアから先進国への輸出の急増が保護主義につながりかねないと懸念されていたことを考えるとまるでうそのようだ。しかしこの事実にアジア経済の本質的な問題点がみえるように思う。

なぜ輸出が伸びないのか、いくつかの原因が考えられる。まずJカーブ効果がある。また伝統的な輸出産品の原材料品などは価格弾性値が低く安くなったからといって急に需要がでるものでもない。深刻な資金不足も問題だ。輸入部品や原材料価格は通貨切り下げで急上昇しているがL/Cをなかなか開くことができない。現地の付加価値ポーションが小さいので通貨を切り下げによる価格競争力の増加も部分的だ。
でももっと基本的な問題として、現地側に「輸出か、さもなくば死か」というような強烈な輸出姿勢がそれほど感じられないような気がするがどうであろうか。アジアからの輸出促進ミッションが頻繁に日本を訪れているとは聞かない。

多くのトランスプラントでは基本的に現地需要を対象としてライン設計がなされており、現地市場が崩壊したからといって簡単に先進国向け製品の生産に切り替えできないという事情があるという。

しかし1985年以降の円高進行のときは、日本企業は大挙して東南アジアに進出し、資本、技術、工場ばかりでなく、国内販売ネットワークに加え、輸出先などの海外ネットワークも現地に持ち込み、ゼロから必死で「アジアの奇跡」を実現させた。それが1995年春以降の円安基調への転換で、日本企業にはアジア現地工場からの輸出にそれほど強いインセンティブが働かなくなった。とたんにアジア各国で軒並み輸出の鈍化がはじまった。そろそろ「アジア発」の輸出努力があってもよいのではないか。

もちろん日本市場が冷え切っていることもある。昨年の日本のアジアからの輸入は数量ベースで前年比0・8%の増加にとどまった。特に下半期の各月は前年比マイナスが続いている。そこで「日本責任論」が出てくる。

しかしアジア経済の奇跡とその反動は、歴史的に円ドル相場に大きく影響されたことを考えると、そうとばかりはいえない。円ドル相場はひとえにアメリカの通商・金融政策に因るところが大きいからである。アジアは日米両国の貿易摩擦の受益者でもあり被害者でもあった。グローバル経済のなかでの犯人探しは決して生産的ではない。

いま重要なことはグローバルに、マクロ、ミクロ両面から、危機脱出のためのきめ細かい対策をひとつずつ組み上げていくことだろう。とくに民間ビジネスが果たす役割が大きく、そのための貿易保険、輸出入金融など、ビジネス環境の整備を求めたい。

(橋本) 

1998年1月5日月曜日

不況下の日本経済は各論で乗り切ろう

今さらでもないが、今回の不況は本格的だ。社内営業部門に聞いても、ほとんどの業界で不況感が急速に強まってきている。しかし不況とは平均値の議論であり、細かく見ればまだまだ良いところも散在していることも事実である。

例えば、全体的に良くない半導体業界の中で技術力と先見性で一人勝ちしているメーカーも存在する。紙パルプ業界はよくなく、ティッシュペーパーなどを作っているメーカーはたいへんであるが、祝儀袋用などの和紙専業メーカーではきわめて高収益を享受しているところもある。かつては不況の代表業種であった造船業界だが、強い造船メーカーの船台は2000年までの受注で満杯である。不況感の強い不動産業界でも都心を中心に保有ビルの空室率がゼロという貸しビル業者もいる。

景気が悪いとか良いとか言うのはあくまでもマクロの議論である。業界をミクロベースで細かく見ると、まだまだ「まだら模様」なのだ。日本経済はいまや全体としての右肩上がり成長が期待できる状況にはない。そのなかで各営業部隊は懸命に、残っている「よい部分」を見つけだし、それをビジネスの種にしているのである。

常に柔軟に、時代の変化を先取りし、守備範囲と攻撃目標を柔軟にシフトさせるのは総合商社ならではの対応である。こういった分野が存在する限り、日本経済の将来はいわれているほどグルーミーでもないように思う。

もっとも気になる点もないわけでもない。グローバル化の大波の中で、どういった産業部門が「勝者」になっているのかと見れば、生産性とか国際性とかとは必ずしも関係がないようなのである。

例えば石油業界だが、特石法の導入で、国際的に見て著しく生産性が劣る小規模のガソリンスタンドを中心に流通経路の合理化と淘汰が進むものと考えられていた。しかしふたを開けてみると、自由化でガソリン価格が大きく下がる中で、零細スタンドはしぶとく頑張っている。逆に近代的な設備を保有して、一見ずいぶん国際的な石油元売り各社の方が、ガソリンを買い叩かれて、経営がしんどくなっているのである。

ガソリンスタンドなどの地域密着型の流通業界は、零細な家族経営が多く、労働生産性では確かに劣るものの、最後は家族の食費を削ってでも戦いうるという、恥も外聞もない抗戦力がある。最終消費者を握っていることも強みだ。また外国企業が代替できる分野でもない。よってなかなか負けないのである。

これはいくつかの面で示唆的であるように思う。つまり、わが国においては、グローバル化の大波の中で、産業の淘汰が進む部分は、必ずしも最も非効率的な部分とは限らない、ということである。農業や、コストが高くて数が多すぎるといわれる土建業についても同じことがいえる。いくつか行き詰まりも報じられるが、ほとんどが会社更生法の適用であり(自主廃業ではないので)業界全体ではなかなかスリム化が進まない。一方で大きな金融機関は簡単に破綻する。経済的な比較優位よりも、社会的、生物的な持久力が最後はものをいうのだ。

これは合理的な傾向であるとは思えない。社会構造的な改革も同時に進めないと日本経済は全体としての競争力を失うように思われる。

(橋本)

1997年12月27日土曜日

リーダーシップについての一考察

1998.12.27

1. はじめに


不透明な時代を反映してリーダーシップへの期待が高まっている。特に、このような閉塞感が強まっている時代であるから、在来型のリーダーではなく、積極果敢に変化の旋風を巻き起こす、西欧型のカリスマ豊かなリーダーを求める声が高くなっている。しかしリーダーシップとは、そのリーダーが指導する組織の形態や、その組織が所属する社会の文化風土によって自ずとそのあり方が異なってくる。現代の日本社会において、さらに総合商社という組織を想定し、求められるリーダーシップとはどのようなものか、考えてみたい。

2. 外的環境によって異なるリーダーの要件

A. 社会風土とリーダーシップ

1. さまざまな文明とリーダーシップ

リーダーシップといえば、古代エジプトのような絶対的権限を持った支配者が整備された官僚制度を通じて支配、命令し、偉大なピラミッドのような建設を行う社会におけるリーダーシップを想起する。支配者の絶対的な権力と官僚組織、被支配者の民度の低さが特徴である。文明が進歩するに連れてこのやり方では通用しなくなる。そこでいろんな工夫がなされる。

たとえば、求心力として「宗教」や「イデオロギー」を利用して全員を一つの方向に向けるやり方である。イスラム教、十字軍、新教旧教をめぐる宗教戦争など。近代では共産主義政権下のソビエト。オーム真理教。一向一揆。ドグマが重視される一神教の社会である。特徴的なことは、当たり前であるが、はじめにドグマがあること。組織の構成員はそのイデオロギーを信じた上で組織構成員となっており、組織の目標は、そのイデオロギーそのものであること。また、その宗教的熱狂は、それほど長くは続かないことなどが欠点である。

徐々に文明が成熟し、社会の民主化が進んでくると、いろんな意見を持つ人が出現してくるので、社会は多様化してくる。その多様な人々を一つの方向に向かわせることは、もともと難しいし、多くの場合その必要性もない。しかし戦争勃発などの非常の事態には、全員が言葉で議論して方向性を確認することが必要になる(ギリシャ雄弁術の伝統)。ローマ時代には、非常時には「独裁官」を民主的に選ぶということもなされたし、外征する将軍には「絶対権限」が与えられた。ギリシャ、ローマ時代の共和制における軍隊は、いずれも「歩兵が強かった」ことに特徴がある(ギリシャの重装歩兵、ローマの亀甲軍団)。納得した上での出征であり、モラルが高かったということである。

「民主主義は怒りで戦う(デモークラシー・ファイツ・イン・アンガー)」。民主主義の軍隊は、戦争の初期にこそ弱いが、いったん本気になると絶対主義諸国の軍隊よりもはるかに強いとされている。20世紀の戦争が、社会全体を巻き込んだ総力戦の様相を呈するようになり、なかなか決着が付かないようになったのも、社会が総じて民主化されたため、どちらもなかなか負けなくなったからだ、といえる。

現代西欧社会では数々のすぐれたリーダーを生んだが、この背景には、ギリシャ、ローマ時代に遡る「民主主義体制下における戦争」という長い経験があるのかも知れない。

1. アジアの社会風土の特異性

このような西欧社会に対して、アジアの社会は独特の性格を有している。「村社会」、あるいは「コンセンサス社会」ともいえる、寄り合いによる意思決定システムである。このような社会においては、強いリーダーシップが発揮されにくく、すぐれたリーダーが育ちにくい。現状維持には向いているが、大変革期には向かない。近世、アジアが欧米からの挑戦に破れ、次々と西欧の植民地化されていったのも、この辺に原因があるのかも知れない。

またアジアには「多神教の風土」根付いている。「多神教」と「一神教」が戦うと、ほとんどの場合「一神教」が勝つ。

たとえば、新大陸に攻め込んだコルテス軍は、ただ神をひたすら信じて、数百の軍勢で数万のアステカ軍をせん滅した。プラッシーの戦いにおいては、インド軍は、十分な装備を有していたにもかかわらず、はるかに少人数のよく訓練されていたイギリス兵にさんざんにやられてしまった。

同じ理由で、現代の中国も「共産主義」と「ナショナリズム」が国を一つにまとめているから強国となっている。

2. 日本社会の特異性

ところが日本社会は、このアジア的性格と西欧的民主主義の伝統の二つを持っているので、一筋縄では行かない。日本社会に西欧的性格を与えたのは、鎌倉時代以降の封建主義であるとされる(川勝平太ほか)。

アジアには中央集権の絶対王制は根付いても、国王と封建諸侯の契約関係で成り立つ「封建主義」は、日本以外では成立しなかった。世界で封建主義が成熟したのは日本とヨーロッパでのみ。これが日本の近代社会への脱皮を容易にしたとされる。

基本的に農民であった鎌倉武士は、自分が開拓した農地を自分のものとするために公家勢力と必死で戦った(「一所懸命」)。ある意味では一つの価値観を全員が共有できたことが鎌倉幕府の強さだった。

同時に武士は、武家の頭領である頼朝を支えるかわりに頼朝は公家に対して武士の利益を代弁するという契約関係が基本に存在した。これが日本が近代社会へ発展するベースとなった。(主君に対して絶対的に服従するといういわゆる「武士道」は、江戸時代になってから考案されたもので、本来のものではない)

日露戦争までの日本軍の強さの秘密としての「奇兵隊」の伝統。奇兵隊は、農民で編成されたが、職業武士の軍団よりはるかに強かった。モラル。加えて「西洋に追いつきたい、追い越したい」とする強い願望があった。「文明開化」の旗印のもとに「大儀ある戦い」。「錦の御幡」。

しかし、日本には、伝統的に強いリーダーを好まない国民性がある。人気のあったリーダーも少なくないが、民衆に愛されたリーダーの大部分は悲劇的な最後を遂げたリーダーであったことは皮肉。義経、大石内蔵助、大塩平八郎、平将門など。

でも数百年に一度すごいリーダーが出現するのも日本である。源頼朝、大久保利通などは、卓越したリーダーで、日本人離れしている。でも両名とも、大衆の人気はない。

3. 国民性、社会風土は変わるか

このようなアジア的な「遅れた」社会を変えてゆかねばならないとの議論がある。しかし社会とか国民性は、簡単には変わらない。「百年河清を待つ」の類で、われわれにはそのような時間はない。

「アポロ計画」の例だが、急いで物事をやるときは、もっぱら手持ちの信頼できるリソーシスを最大限に活用して、新たな冒険を最小限にとどめ、客観条件を与件として考え、計画を進行させなければならない。

D. 組織の形態とリーダーシップ

1. 会社組織の三つの基本パターン

荒井伸也氏によると、会社組織には三つの基本パターンがあるという。

a. 製造会社型

大部分の製造メーカーがこれだが、会社の目的がはっきりしていて(たとえば「鉄を作る会社」とか)、その目的を達成するための分業を遂行するための組織。

組織は作業工程と同じであり、それぞれの部署の仕事が連動しあって、最終製品が出来上がる。それぞれの部署でやることは異なるが、すべての努力は一つの目的に集約されていく組織である。チームワークが重要。

すぐれた組織運営力がリーダーシップの基本となる。

b. 自動車販売会社型

「トヨタカローラ販売」といった会社組織である。全部の組織でやることは全部同じ(たとえば「車のセールス」)。カルチャーも全く同じ。

業績の拡大は、組織を並列的に拡大することと一人一人の戦闘能力を改善することで達成される。

「精神訓話型、朝礼型、マニュアル型」のリーダーシップが有効である場合が多い。

c. マスコミ、総合シンクタンク型

組織の構成メンバーと活動の多様性に特徴がある。皆がてんでバラバラにいろんな方向に動いているように見える。それぞれの価値観(カルチャー)さえ全く違う場合がある。ある部署で有効な教訓が別の部署では全く役に立たないことがある。でも完全にバラバラでコングロマリットかといえばそうでもない。一つにまとまっている。

そういう組織でのリーダーシップは難しい。統治しにくい。(日立、東芝などの総合電機メーカーでもそういう性格がある。だから日立のリストラが進まない。)

組織の構成と目的、その成果と評価が一本化されて明確になっている組織の場合、リーダーシップは、具体的なかたちで発揮されやすい(野球の監督、軍隊、製造工場など)。でもこのような多様性のある組織で、リーダーシップが具体性を持ちすぎる場合、むしろ現場現場の創意工夫を殺してしまう可能性もあるのである。

このように企業の形態によって求められるリーダーシップは異なる。総合商社は上記三つの企業の混合体といえるが、どちらかというと三つ目の「マスコミ、シンクタンク型」である。総合商社についてもう少し考える。

4. 総合商社におけるリーダーの条件

A. まず総合商社とは

総合商社におけるリーダーの条件を考える場合、総合商社とはどのような会社なのか、どのような将来像を持っているのかについて明らかにする必要がある。それ次第で必要とされるリーダーシップの性格が異なってくるように思われるからである。

1. 卸売業の位置づけ(商業は永遠なり)

総合商社の「トレード機能」について、将来トレードにはあまり期待できないと悲観的な見方が多いが、はたしてそうだろうか。商業、卸売業とはきわめて歴史のある産業である。近年、「大量生産、大量販売」が脚光を浴び、製造業者による流通支配が続いたため、商業に対する言われない劣等感が芽生えたように思える。実際には「大量生産、大量販売」の概念(フォーディズム)自体が時代遅れになりつつある。中間業者(商業)の役割が見直されつつある。

ただ大切なことは、「既得権としての商権」と卸売業の機能とは区別して考えねばならない。「既得権化した商権」はネガティブな性格を持っており、規制緩和と同じ考えでの望まねばならない。しかしそれは卸売業自体を否定するものではない。日本の農業が既得権化して生産性の向上が叫ばれてはいるが、農業自体を否定するものではないことと同じ。

2. 経営コンサルタント的な性格

総合商社は、卸売業者として、静的な意味での卸売業の役割に加え、動的(ダイナミック)に、時代のニーズに沿って新たな取引関係を開発し実現させていく機能がある。その中には投資活動も含まれる。投資銀行的な性格がある。これはロマンに満ちた芸術的な創作活動でもある。

もともと商社マンとは、個人プレーヤーであったのはこのような事情が背景にある。一人一人の商社マンが、「知恵者」として、業界の「経営コンサルタント」として、問題意識を持ち、改善の方向を提案し、説得し、創意工夫を持って活躍しなければならない。

「梁山泊、食客三千人」の世界である。

現場の各部門の創造性が大事になる。

C. その組織でリーダーシップとは

1. 共通の尺度で経営のプロが

このように多文化、多様性が錯綜している総合型企業においては、トップが個々の現場で、具体的に直接指揮することは不可能である。

また文化を強調する宗教的なリーダーシップも、社員が最初からその宗教を前提に入社してきたのでない以上、難しい。

やはり多様な現場で、みんなが納得できるものといえば経理データに近いものとなる。そのような「客観的メルクマール」(共通語)を探し、その共通の尺度で会社の進むべき方向性、理想を掲げ、ビジョンを提示し、目標設定と評価を実務的にマネージメントしてゆくこと。いわゆるアメリカ型の「経営のプロ」による経営が望ましい。

1. 先見性

それと「先見性」が非常に重要である。つまりリーダーは先が読めなければならない。先が読めて始めて組織の目標を設定することが出来る。その目標を継続的に組織として達成できるように、組織にその仕組みを「ビルトイン」することが重要である。

2. 自動操縦装置

かつての民青の指導者は「幾らリーダーが大声で突撃と怒鳴っても、声を聴いて突撃するのは廻りの数人だけだ、だからには日頃から全員の組織化(オルグ化)しておくことが大切」といったが、それと同じである。欧州の重電・エンジニアリング会社のABB(アセア・ブラウン・ボベリ)ではリストラ思考が組織にビルトインされているという。

「鼓腹撃壌」。古代中国で、皇帝がお忍びで市井を視察するに、一人の老人が穀物を食べて満腹し、腹鼓を打って踊りながら俺にとって皇帝や政治なんて関係ない(帝力いずくんぞ我に及ばん)」というのを聞いて、皇帝はこれなら国はよく治まっていると満足したという故事がある。このように意識されないリーダーシップというのが、平和で多様な東洋社会では望ましいのかも知れない。

3. ビジョンを「言葉」で示すこと

同時に組織の美しい将来像(夢)を社員に与えることが大切である。客観的尺度が無味乾燥な数字、経理データー中心にならざるを得ない以上、構成員のモラル向上のために、「錦の御幡」としての「夢」と「大儀」と「補足説明」が必要なのである。

全員に、思想を明確なかたちで伝えるということは、すなわち「言葉」が大切になってくるということである。

以上

1997年12月1日月曜日

「21世紀型チームワーク」と企業理念



チームワークとは「複数の人間がともに行動し一定の成果を上げるための人間関係の在り方」と定義することが出来るが、外的環境に変化(技術革新)が起こると、「チームワーク」もかたちを変えざるをえないのではないか。今回はそれがテーマである。

集団行動を考える場合、昔から軍隊を例に取ることが多い。高坂正尭の「戦争の世紀」と題する講演を聴いたことがあるが、その中で軍隊における歩兵戦術の変化を語っている部分がきわめて印象的であった。「チームワーク」を考える際に参考になると思う。

すなわち、近世のヨーロッパの軍隊の特徴的な敵陣突破の戦法は、銃火の中でも隊列を決して乱さないように集団訓練を施された密集歩兵集団による中央突破であったという。映画の「戦争と平和」のシーンを思い出せばよい。基本的にこの戦法でもってヨーロッパの軍隊はアジア・アフリカの軍隊を圧倒し、世界中に植民地を広げることができた。しかし技術革新の結果、この戦法は通用しなくなってしまう。

つまり小銃の射程距離と連発性能の向上である。単発銃が連発銃となり、射程距離が100メートルから1000メートルを超えるようになると、在来戦法による歩兵集団の前進は耐え難いほどの犠牲を伴うことになった。とりわけ普仏戦争での歩兵の犠牲が甚だしかったため、両国はこの伝統的な戦法を廃止し、兵士は密集集団を組むのではなく、散開して遮蔽物を利用しながら前進するようにいったんは改める。

ところが非常に興味深いことだが、しばらくすると再び元に戻ってしまうのである。歩兵操典は再び改訂され兵士は昔どおり「肘と肘とを触れ合わせ、ドラムとラッパの響きとともに前進する」ことになる。なぜ、この様な不合理なことになったのか。

「人間はなぜ戦うのか」という基本的な問題にも関連するが、散開する隊形では兵士は全体の状況を把握できず、孤立したことで士気が低下し、戦列からの離脱者が続出したのである。結局、密集隊形を組む以外に全員を一つにまとめることは出来ないと判断され、この「戦争と平和」スタイルの攻撃方法は変わることなく、第一次世界大戦では人類史上最も悲惨と言われる兵士の犠牲を生じさせることになった。そんな話であった。

考えるに技術革新(小銃の進化)にともない新しい戦闘方法(散開方式)は工夫されたものの、それに応じた適切な「チームワーク」手法の開発が追いつかず適応できなかったことによる悲劇と整理できる。

21世紀をひかえ、日本企業は組織をより柔軟でソフトなものに変える必要性が叫ばれている。問題は、今も昔も密集隊形から分散隊形に移行するとモラルの問題が生ずるが、それをどう解決するかということだろう。

携帯できる小型の通信手段が開発され、現代の歩兵は小規模な集団で散らばって行動出来るようになっている。未来型の企業組織においても、構成員はそれぞればらばらに行動するものの、全員による情報の共有が可能にする情報化推進が重要になってくるのである。

同時に「個」が尊重されながらも企業の一体感(総合力)を維持できることも大事になる。共通の価値観として「企業理念」の確認が大切になってくると思う。

橋本尚幸

1997年10月1日水曜日

迷路に入った日本経済と「景気対策」

「だからいったじゃないの」とはあまり男らしい口吻ではない。しかし昨今の低迷する国内景気を見てこのような感想を心に抱く人も多いのではないか。多くの反対を押し切り今春から実施された消費税率の引き上げなどのデフレ政策は、案の定、国内景気を大きく減速させてしまった。個人消費は低迷し、在庫は積み上がり、生産活動は萎縮している。輸出だけは好調だが、東南アジアの景気減速と対米黒字の急増で先行きは不透明だ。期待成長率の低下による設備投資計画の下方修正も始まっている。産業界を見てももよい業界はほとんどない。特に地方と中小企業で景況感が悪化している。

景気低迷の直接のきっかけは消費税の引き上げによる個人消費の予想以上の下ぶれにあった。通例であれば消費税率が上がっても消費者は生活水準を維持するために貯蓄を取り潰す行動に出るため大きな需要の落ち込みは発生しないのだが今回は違った。夏口を過ぎても消費者は慎重な態度を崩していない。

この消費者行動の慎重化という傾向はどうも基調的なものらしい。バブル崩壊後、家計の消費性向は一貫して低下を続けている。背景にあるのは将来生活に対する不安だろう。金融部門のバブル後遺症は予想以上に根深く、産業活動にも悪影響を与えている。雇用不安が広がり、人口高齢化で年金システムの破綻すら危惧されだした。そういう状況のなかで家計は支出を抑え貯蓄に励む以外に有効な自己防衛手段を持たないのである。生活水準を落とすことは簡単なことではないが、幸いにグローバル化でより安い代替商品が入手できるようになった。倹約も目的意識を持てばまた楽しいのである。しかしこれでは景気はなかなか良くならない。日本経済はいまや失速寸前である。

どうしたら景気を浮上させられるかであるが、なかなか有効な対策が見えてこない。金利はぎりぎりまで下がっており、今さら金融緩和でもない。やはり財政の出番であると財政再建を先送りにしてでも財政を出動させよとの議論が出ているが、やはりこれはまずいだろう。国債残高の累積は、納税者から国債保有者への巨大な所得移転メカニズムを国家の保証のもとに制度化することに他ならないからである。減税は望ましいが景気への乗数効果は小さい。規制緩和や土地の流動化政策などは必要な政策ではあるが、どれだけ景気浮揚の効果を持つか疑問である。数多くの景気対策が議論されているが、打つ手は限られており、いずれも景気を浮揚させる機関車とはなりそうにない。

この様な場合、むしろやるべきことは、内容に乏しい「景気対策」の長いリストを作ることではなく、政府が行財政改革を断固として推進するとの決意を具体的な行動で示し、国民に将来に対するコンフィデンスを与えることだろう。不況の時にしかできないこともある。歳入減少を奇貨としてとらえ「小さい政府」の実現に邁進すべきである。

このままでは民間企業は現在の鬱陶しい低成長が来世紀にかけて続くことを前提に個別の対応を考えざるをえない。そうしたら不況は本当に長期化する。

橋本尚幸